懐中時計
                 

  赤い重厚なカーテンを閉め切った、すすけたシャンデリアの大広間で、腹の底に響く古時計の音が、空間を包み込んでいった。


  辺りで軽やかなテンポを刻みながらまどろみ揺れているのは、先ほどのバリトンの美声の時計だけではない。
色褪せたチェストの上でじっと羽を休める白鳥の置時計、セピアの明かりでかすかに照らされた壁に掛けられたアンティークエンジェル。主人を失ってもなお鮮やかに煌き続ける貴金属の腕時計は、部屋の隅のローテーブル、もう音を奏でることの叶わないオルゴールの傍らに。

  辺りから絶え間なく続く狂ったからくりの調べの中で、一体何を正常と呼ぶのか、本当のものは何なのか。連続した不規則な音の鳴り響くこのひずんだ空間の中で、時は、過去は未来は、どのように流れてゆくのか。


  「そんなもの個人の価値観の勝手だわ」
 
  美しく波打つ栗毛色の長い髪を、チョコレート色のワンピースの上に無造作に、かつ優雅におろして、少女は、それは小さい両の掌で華奢な銀細工の懐中時計を愛おしそうに撫でている。

  「過ぎゆく時なんていらないの、とうに狂ったこの子たちにも、わたしにも、ね」

  ドールのように無機質な(生も死も停止した彼女だが)表情を浮かべていた少女は、長い睫毛を揺らしうつむいて、かつて自分が確かに人間であったころを思い返し、ふっと微笑んだ。


  彼女の昔は、何もかも満ち足りていて、これからも永久に続く幸せが約束されていると錯覚していた。少女の大好きだった、首周りがやさしい桃色のリボンでふわっと結ばれた大きなテディベアは、毎日の手入れでそれは美しい毛並みを誇っていて、それがそれ以上に世にも愛しい我が娘の手に渡るのを見たときは、どれほど幸福であっただろう。嫁に行くときに母から涙とともに受け取った高貴な指輪、銀の懐中時計だって、子から孫、そして曾孫へと、神から与えられた安寧が続く限りずっとずっと…

  「そしてついに、それは叶わなかったわね」

  しかし、もう哀しむことは何もない。夫を、娘を、諸々の希望を奪われた彼女に、同情した優しい機械たちが生み出すセピアの空間に閉じ込められた彼女は、かつての少女の姿に戻って、遥かな夢の中にたゆたう。苦しい過去も孤独な未来もすべて吸い込んで、動かない時をひたすら刻む古ぼけた時計たちとともに。少女の意のままに時を司る、慈愛あふれる懐中時計とともに。
  祈りを食らいつくす魔となりはてたって、と少女は歌う。
  

  「モザイクのように不安定なこの旋律が、いつか砕け散って消えるまで」





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